宇都宮地方裁判所 昭和34年(わ)193号 判決 1960年2月25日
被告人 中村泰三郎
昭一一・二・二六生 無職
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は、
被告人は、昭和三四年七月二四日午後一時三〇分頃栃木県那須郡那須町大字湯本二〇六番地先御成街道上において、丸山美代子(当時三〇年)、勝村恵美子(当時三四年)の両名が同所を散歩しているのを認めるや、同女等から金員を強取しようと決意し、同女等のそばに近づき突然右手拳でこもごも右両名の顔面を強打して両名をその場に転倒させる等の暴行を加え、同女等を極度に畏怖させてその反抗を抑圧し、右丸山が現金一、二八〇円等在中の革製女物財布一個を投げ出すや、これを強取し、その際右暴行により、右丸山の左顔面に加療約一週間を要する打撲擦過傷の傷害を、右勝村に対し加療約五日を要する左眼窩打撲傷の傷害を負わせたものである。
というのであつて、右の事実は、被告人の犯意及び責任能力の点を除いて、勝村恵美子及び丸山美代子の各司法警察職員に対する供述調書、医師見川泰山作成の診断書二通、司法警察職員各作成の写真撮影報告書、実況見分調書、捜査報告書、緊急逮捕手続書及び捜索差押調書、丸山美代子作成の仮還付請書によりこれを認めることができる。
しかしながら、本件公訴事実掲記の日時(以下これを仮に本件犯行時という)における被告人の精神状態は、心神喪失の状態であつたのではないかとの疑がきわめて濃厚である。なんとなれば、鑑定人松岡茂作成の鑑定書、鑑定人鈴木喬作成の鑑定書、第二回公判調書中鑑定証人松岡茂の供述記載部分、第四回公判における証人松岡茂の証言、中村平治の司法巡査に対する供述調書、第二回公判調書中証人中村平治の供述記載部分、第五回公判における証人鈴木喬、同中村平治、同加藤武男、同池田木一の各証言、第六回公判における証人江田正男の証言並に第一、二回各公判調書中被告人の供述記載部分、被告人の当公判廷における供述及びその態度を総合すると、被告人の精神状態及び破瓜病型接枝分裂病の一般症状に関して、次のような事実を断定することができる。すなわち、
被告人は、元来精神薄弱(痴愚)者であるが、昭和二九年頃から精神に異常を来たし、昭和三〇年一月宇都宮市所在森精神病院に入院して治療を受けた結果病状軽快したため同年三月退院したけれども、再び病勢増悪し、昭和三三年八月宇都宮市所在直井精神病院に入院して接枝破瓜病(精神薄弱の素質のうえに発病した破瓜病型精神分裂病)であるとの診断のもとに加療していたが、病状の固定化と経済的理由により昭和三四年二月同病院を退院して肩書自宅に帰つていたところ、同年七月に入つてから本件犯行時直前にかけて、その病状がまたまた悪化し、このことは家人にも明らかに看取できる状態となり、その後本件犯行時を経て現在に至るまで、その病状は快方に向つたとは見えず、むしろ増悪の傾向にあり、この間の症状の主なものとしては、慢性化した精神分裂病の徴候である心的接触不良、自閉、思考障害その他かなり程度の進んだ感情鈍麻と意欲減弱とが認められ、しかもそれは重症痴愚のうえに発した破瓜病型接枝分裂病の症状を呈しているものである。しかして、一般にこの種精神病者のたどる病状経過としては、一旦発病した後は、一進一退多少軽快することはあつても、完全に治癒することは極めて稀有の事例に属し、その精神状態が正常人のそれに近づくことはあり得ても回復することは殆んどあり得ず、漸次人格荒廃の度を加えて遂には植物的存在化するに至るのを通例とし、被告人もまたその例外ではなく、従つて、本件犯行時被告人が接枝破瓜病患者であつたこと、疑問の余地がない。そして、一般に、思考障害の認められる接枝破瓜病患者の、或る短時間内の行動を観察するときは、その思考障害のために、動機を明確に把握することができない結果、たとえその前後の状況を参酌しても、その行動が、正常人のそれと少しも遜色のない精神状態のもとに行われた行動であるか、それまでに至らなくても正常人のそれに近い精神状態のもとになされたものであるか、或いはまた、正常人の理解を許さない、その動機を明瞭にすることが不可能な精神分裂病者特有の精神状態のもとになされた無目的ないしは衝動的行動と呼ぶべきものであるか、いずれとも断定し難い場合があり、このような場合には、その行動主体が接枝破瓜病者であるということから観察して、当該行動自体を無目的ないしは衝動的行動であると推量して差支えないのである。
そこで、前示認定の本件公訴事実に一見該当する被告人の所為(以下これを仮に本件犯行という)を、前掲各証拠のほか、証人村松時昭、同伴敏男の各証言並に被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書を併せ仔細に検討してみるのに、本件犯行は、その外形だけをみれば、完全な刑事責任能力を具備した正常人の行為或いは少くとも刑事責任無能力者ではない心神耗弱者の行為と解することができるようでもあるが、上来説明した理由により、その実質はむしろ精神分裂病者に特有な精神状態のもとになされた無目的ないしは衝動的行動と推量することができるのである(すなわち被告人が何のために暴行したのか不明であり、被害者が財布を投げ出したから、それが被告人の眼に映じ、衝動的な本能行動として拾つたのかも知れず、被害者が財布を投げ出さなければ果して財布を取つたかどうか疑わしい)。もつとも、右のような無目的ないしは衝動的行動をなした精神病者の中にも、刑事責任能力の有無を判断するにあたつて、是非善悪を弁別し、これに基いて行動する能力を正常人と同程度に具備していると認められる場合もしくはその能力において多少減弱していても喪失するまでに至つていないと認められる場合が稀に存することを否定するものではないが、一般にこの種精神病者の無目的ないしは衝動的行動なるものは、是非善悪を弁別し、かつ、これに基いて行動する能力を全く欠除している精神状態の者、すなわち、心神喪失者によつて最も多く行われるものであることもまた十分首肯されるところである。すなわち、事ここに至つては、本件事犯は刑事訴訟法第三三五条第二項による被告人側の主張を俟つまでもなく、行為の外観からする有責者たることの事実上の推定が破れたのである。
そうすると、本件犯行時における被告人の精神状態については、正常もしくは心神耗弱の程度に止まつていたとの立証が十分でなく、かえつて刑事責任能力を全く喪失していた公算が極めて大であるから、疑わしきは被告人の利益に解すべき刑事裁判上の鉄則ないしは、検察官に負担させた挙証責任の観点からして、本件犯行は、刑法第三九条第一項にいわゆる心神喪失者の行為としての処遇を受けるべきものといわなければならない。
よつて、刑事訴訟法第三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡をする次第である。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、被告人には訴訟能力なく、従つて、被告人(在監者)に対する本件起訴状謄本が刑事訴訟法第二七一条第二項に定める期間(以下これを法定期間と略称する)内に有効に送達されなかつたことに帰着するから、同法第三三九条第一項第一号により決定で本件公訴を棄却すべきであると主張するのでこの点について考察する。
およそ在監者に対する起訴状謄本の送達は、たとえそれが形式的に受送達者である当該監獄の長になされたとしても、在監被告人において受送達時及びその時以後法定期間満了までの間引き続き訴訟能力(この場合にあつては起訴状謄本の送達を受ける能力に限定して考察する。以下同じ。)を欠くときは、その起訴状謄本送達行為の無効は絶対的であるけれども、在監被告人において、当該監獄の長の受送達時には訴訟能力を欠いていても、法定期間内に訴訟能力を回復したうえ、当該起訴状謄本を現実に受領するか、もしくは、現実に受領しなくても事実上その内容を了知しまたは了知し得る状態になつたときは、その時点において、起訴状謄本が有効に送達されたものと解するのを相当とする。しかして、起訴状謄本の送達を受ける能力としては、自己の独力もしくは他人の助力を得て、自己が或る事実について刑事訴追を受けたことを理解し、これに対する防禦方策を講ずる能力を有すれば足りるものと考える。
よつて本件記録について考察するのに、本件公訴が提起されたのは昭和三四年八月一日であつて、本件起訴状謄本は弁護人選任に関する通知書とともに同月三日、当時被告人が在監していた小幡町拘置支所において同拘置支所長に対して形式的には適法に送達され、即日加藤看守から被告人に手交され、同月八日江田看守立会のもとに被告人が国選弁護人選任願に自署指印し、同月二四日第一回公判に臨んだことが明らかであるところ、被告人は、右の期間内を通じて破瓜病型接枝分裂病者として、かなり程度の進んだ症状を呈していた事実を認めることができるので、右期間内における前述のような被告人の若干の応訴行動は前説明のような起訴状謄本の送達を受ける能力具備のもとになされたかどうかを明確に知ることはできない。しかしながら、被告人は、右の第一回公判期日冒頭において、人定質問に対しては明確に起訴状記載のとおり応答し、次いで起訴状の朗読を聞き取つたうえ、裁判長から公訴事実についてなされた質問に対し、これを別段の障害もなく理解したうえ、自認的応答をなし、唯その動機を問われた際、接枝破瓜病の徴候の一である当意即答症的応答とも認められる蛇が首に巻きついた云々の陳述をなしたほか、被告人の供述及び態度から、裁判所及び出席検察官においては、被告人が訴訟能力(この場合は前述の起訴状謄本の送達を受ける能力を含み、これよりも高度の訴訟能力)を有していることについてなんらの疑念を挾む余地がなく、被告人の刑事責任能力についてはその不存在を主張した弁護人でさえも、訴訟能力の欠缺については想到しなかつたことに鑑みても、被告人が第一回公判期日において前記訴訟能力を具備していたことは明らかであるといわねばならず、しかも、被告人は右第一回公判期日において起訴状記載の公訴事実を現実に知らされ、これを了知したものと認め得るので、被告人に対する本件起訴状謄本の送達は、法定期間内である同年八月三日(送達)以降遅くとも八月二四日(第一回公判)までの間において、効力を有するに至つたものと解することができ、弁護人のこの点に関する主張は理由がない。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 堀端弘士 福森浩 柿沼久)